戦争が無ければ、両親は生きていたかもしれない。
三重県の父の里に幼稚園の途中で、
大阪から疎開を
したのです。
慣れない畑仕事に疲れて、母は病気になり

お医者さんが来て、注射をして貰ったら死んでしまいました。


私が、小学2年のお正月でした。心臓弁膜症の父は、
ショックで寝込んでしまい私が、下の世話をして兄4年生が
家事をして弟が、妹の子守りをしました。
 


4月の初めに父が、後を追うように亡くなってしまいました。
私と弟は、2年間父の兄の家に預けられましたが
物資が乏しく、配給のパンは、石油の匂いがして嫌でした。



兄や妹の行く先は、教えて貰えず寂しい思いをしました。



4年生の時、私だけが岐阜県の知らない家に貰われました。
大阪の自宅は、戦争の被害に遭わなくて、そのまま残って
いたようですが、両親が亡くなりましたので、誰の手に
渡ったのかは、知りませんでした。



母が、元気な時に一緒に乗った電車の光景は、
今も鮮明に
残っています。それは、
電車のドアも窓も無くて開いたまま
走るので、
つかまれないで力尽きた人が、次々と川に落ちて
いったのです。
私は、母に守られて中の方に入れたので
助かりました。


その頃は、空襲警報が鳴る度に怖くて

怯えていました。
 ある日、前の山に飛行機が撃たれて煙を出しながら
キリきり舞って落ちて行きました。
落下傘が、2つ ふわふわ~と浮かんでいました。
その翌日が、終戦の日でした。





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